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谷中 安規 1897年1月18日 - 1946年9月9日)

 

昭和時代前期の日本の版画家・挿絵画家。通称〈アンキ〉とも言われる。

 

奈良県桜井市の生まれ。東京の豊山中学を中退し、永瀬義郎著《版画を作る人》から影響を受け1931年に日本版画協会の結成に参加する。

 

1936年、挿絵倶楽部(後の日本挿絵画家協会)が結成されるとその会員に推薦される。版画誌「白と黒」「版芸術」同人となり、内田百閒・佐藤春夫らの作品の挿絵や装丁も手掛け、若い時から転居を繰り返していたが空襲が激しくなる頃から消息を絶ち、滝野川区中里の焼け跡で罹災生活を送っていたところに百閒が自分の安否を気遣っていることを新聞で知り、百閒宅を訪問したのが1946年2月のことである。その7ヶ月後、誰にも看取られることなく息を引き取った。享年49歳。

1929年(昭和4年)頃、谷中が東京漫画新聞社を訪れて『月刊マンガ・マン』の編集助手をしていた画家の吉田貫三郎に「シャムあたりにある寺の壁の彫刻のような人物の頭の中から手足が出ていたり、胴のあたりから頭が出ていたりしている」奇怪な絵を見せたので、吉田はアメリカのナンセンス漫画が流行していた時勢に合わないと考え、独断で谷中の採用を見送ったという[3]

挿絵画家としては幻想的で、南洋を思わせるエキゾティックなモチーフや都会の情景を影絵のようにとらえた作品が特色。

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