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プロフィール

 平野 遼

 

 

 

九州小倉を拠点に活動し、現代の苦悩を卓抜な筆力であらわした洋画家平野遼は、

11月24日午後11時48分、心不全のため北九州市小倉北区の新小倉病院で死去した。享年65。

 

昭和2(1927)年2月8日、大分県北海郡に生まれる。本名明。同8年、戸畑市沢見尋常小学校に入学。

3年生の頃から技法書等により絵を独学する一方、通信教育で挿絵を学ぶ。同14年戸畑男子高等小学校を卒業。

3歳で母を、同15年13歳で父をなくして同年より徴用工として働く。同20年除隊後戸畑に帰るが、同24年に上京。

ポスター、似顔絵の制作、ウインドウ装飾等で生計を立てつつ、同24年第13回新制作派展に蝋画「やまびこ」で初入選。

同26年第15回自由美術家協会展に「詩人」で初入選し、以後同展に出品を続ける。

同28年第17回同展に「白い家」「兄弟」を出品して優秀作家賞を受賞。この頃より糸園和三郎、小山田二郎、瀧口修造らの

知遇を得る。同31年第20回自由美術家協会展に蝋画「夜」を出品して佳作賞、同32年第21回同展に水彩画「飛べない蝶」

を出品して2年連続して佳作賞を受け、同33年同会会員に推される。同34年第13回日本アンデパンダン展に「爆発」を出品。

同37年、第5回現代日本美術展に「修羅A」「修羅B」を出品するとともに、前年の第25回自由美術家協会展出品作「像」を

第5回安井賞展に出品する。

同39年9月、麻生三郎、糸園和三郎、森芳雄らと共に自由美術家協会を退会して同年10月主体美術協会を設立。

以後、同展のほかに、現代日本美術展、安井賞展等に出品したが、同50年主体美術協会を退会して無所属となった。

同53年6月ヨーロッパへ旅し、スイス、イタリア、オランダ、東欧等を訪れる。同54年7月には中央アジア、同年9月には、

東独、チェコ、オーストリアへ旅行。その後も、トルコ、ギリシア、スペイン等を訪ね、晩年は海外への旅が多くなった。

 

画業の始めから一貫して興味の中心は人間、特に自己の内面にあり、最初期には写実的具象画も描いたが、昭和30年代に

抽象的作風へと移行、晩年にはデフォルメされた人体像による象徴的作風へと展開した。

昭和61年12月、池田20世紀美術館で「平野遼の世界展」が翌年6月北九州市立美術館で「平野遼の世界展」が開かれており、

画歴は同展図録に詳しい。作品集には『平野遼素描集』(大阪フォルム画廊 昭和47年)、『平野遼自選画集』(小学館 昭和52年)

等がある。文章もよくし画文集『地底の宮殿』等の著書がある。

​​『東文研アーカイブデータベースより』

アトリエの平野遼.jpg
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